笑って、笑って!

日記
08 /31 2016
なんの役にもたたないかもだけど、したいこと。
震えるほど心に響くもの。

わたしにとって、それってどんなものかしら??と、うっすら気にしていたのですが、
「そういえば、ときどき涙がでそうになるものに出会っているな」と気づきました。
それは言葉とか出来事とか形はひとつじゃないのですが、なんかすごい嬉しいような、ムズムズするような、ワ〜!って感じ。

「笑って!」って言葉もそれです。
なんか、涙がでそうになる。カラオケとかしていて歌詞にあったりすると、気を散らさないと声が震えて歌えなくなる。

友達が以前、ハリウッド大作とかのタイトルをもじったポルノ映画のおもしろいタイトルを見せてくれて、「こういうの一日中考えて暮らしたい!」って言ってて、その時も同じように涙が出そうな感じになった。

「まあだだよ」って映画で所ジョージさんが日の丸扇子を両手に持って笑っている感じも、やっぱり涙がでそうになる。

いい! すごくいいな! って、単純に、思って、なんかわからない震えと涙がグワーって出そうになる。


そのあとに「いや、でもねぇ・・・」ってつけるとその気持ちはどこかに吹き飛んでしまう。
なのに今までわたしは必ずそうしていた。
「いや、でも、なんの役にもたたないし」
「いや〜、でもなんも意味ないんだけどね」

ただ、「おもしろいじゃん!」「いいじゃん!」「わーい!」って、喜べばいいのに。嬉しがればいいのに。楽しめばいいのに。

もったいないことをしました。

これからは「いや、でも」が出てきたら、「ノン!」って首を振って頭から「いや、でも」を追い出して、全身全霊でエンジョイします!



きっと心の奥底ではそうしたいと思っていた。
だからこそ、「笑って!」って言葉に、「どーしょーもないくだらない」ことに、「ただおもしろいだけ」に、涙がでそうになるのでしょう。
無意識ちゃんが、「それだよ!」って、おしらせしてくれているのでしょう。


わたしと同じように意識ちゃん大活躍な皆様!
探してください、必ず、あるはずです、心のなかに、あなた自身を笑顔にしたい、
「ああ、いいなぁ!」っていうなにか!

それ、それがたぶん、あなたの、わたしの、無意識ちゃんのおしらせです。
ここにいるよ、っておしらせです。


スポンサーサイト

正直にはずかしいことを言ってみる

日記
08 /29 2016
先日頼まれごとをされたんですよね。(これ日本語あってるかしら?)

その時、まぁ内容的にはわたしに無理のない範囲だったらオッケーよ、ってことだったんですが、
どうも胸がざわざわしてしまって、なんかスッキリしない感じだったので、どういう反応をいただくかはわからないけど、言ってみよう、って思ったんです。

「結論としてはオッケーなんだけど、それはわたしが誰かにそうしてほしい、と思っていることなので、ずるい!わたしがそうしてほしいのに!って思ってはいるよ」って。

でね、「今困っているの?」って聞かれて、それは、「ううん、困ってない」って答えたんです。
実際いまわたしは何も困ってない。
しいていえば最近立場が脅かされて、猛烈に荒ぶっている意識ちゃんのことは困ってるけど・・・

とか考えていたら、なんか、「ずるい!」って思ってたのが、口に出しちゃったことで成仏しちゃったような。

なんか、もうあんまりずるいって思ってないなぁ・・・ってちょっとちからが抜けるのを感じました。



わたしはかなり小さい頃から
「守られたい、包まれたい、安心させてほしい、ほめてナデて甘やかしていてほしい」というとってもとっても大きな願望があったのですが、それは早くに父親を亡くしたせいかな?って思ってたのです。

でも、最近冷静になけなしの記憶から自分の父親がそんなに頼りになる、大きな広いあたたかい存在だっただろうか?と思い出していたのですが、
・・・うん、ちょっと違うかも。
いや、とても素敵なひとでした。
お金持ちの末っ子で、なーんにもできないチャラ男で、お母さんにお見合いで一目惚れして、結婚を機にようやく働き出して、37歳で胃がんで死んじゃった、とっても可愛い人でした。
わたしはお父さんの笑ってる顔しか覚えてません。
それさえ、写真のお父さんを覚えているだけなのかもしれないくらいのあやふやな思い出です。


わたしはその、守ってほしい、包んでほしい相手が誰なのか、わからないのですが、もしかしたら、それは自分ですらなくて、なんていうかその、神様とか、宇宙とか、大地とか、いろんないろんな表現があると思うのですが、なんかそういう、今の私には全然ピンとこない、大きなものなのかもしれないなぁ、と思い始めたのです。

しかもそういうのって、もうすでに守られていて、包まれていて、安心してよくて、ただそこにわたしをホメてナデて甘やかしてくれる「手」のようなものが、すでにあるって、思えばいい、いや、気づけばいい?って感じなんじゃないかなぁ・・・・と、今日はいつもにもましてあやふやな文になってしまうのですが、
その「手」の存在をただ信じれば、それが思考が現実をつくるようななにかにつながるんじゃないかなぁ・・・と・・・

うーん、まだむずかしいかも!
わかんないや!


でも、「ずるいよ、わたしがたすけてほしいのに」って言えたこと。
わたしにはものすごく大きいことだった。
なんだか嬉しいような。
はずかしい、くやしい、歯をくいしばってきたようなことを、ぽろぽろと口に出してみるの、いいかもしれません。
なんか、思ってたより、言ってみると、たいしたことじゃないな・・・ってちからがひとつ抜けることもあるかも。

ちょっと試してみませんか。



コブタTV(Youtubeです。よろしければごらんください、チャンネル登録もぜひおひとつ。)

信じると、待てるのかもしれない。

日記
08 /25 2016
「ひとの考えてることはわからないからなぁ」と、先読み、勘ぐり、妄想のたぐいを手放してみると、ひとを信じることがさほどむずかしいことではないのかもしれない、と思えるようになってきました。


「こう思っているんでしょ?」「こうしたいんでしょ?」とひとを読もうと意識ちゃんが張り切っている時って、とにかく自分がせっかちで、よけいなお世話をやいていて、勝手にたいへんがっている感じでした。

それも、今思えば、本当にそのひとを思って行動する、というよりは、「このひとはわたしにこう望んでいるのだろう、期待にこたえなくては関係に問題が生じてしまう、がっかりされてしまう」というなんとも切羽詰まった危機感のようなものが奥底にあった気がします。

ほーんと、ささいな、たいしたことないことでも。

そんでもってホントのホントは納得できてないから、「なんでわたしばっかりこんな大変なことしなきゃいけないんだろう、これだけやってるんだから同じくらい返してくれないとおかしい!」と・・・・・・・・・
お、思ってました!


・・・ね〜、こんなんじゃ関わってくれる人たちもしんどいですよね〜、ホントすいません!

これからずっと謝っていくのもなんですし、そんな頑張ってくれてた意識ちゃんも「必死だったんだね、おつかれさま!」とねぎらってあげたいので、今の、ニュー武内の話ですが・・・

「ひとの考えてることはわからないから、考えるのやめよ!」って、最初、なんかちょっと冷たいような気がしたんです。
「だから関係ないし、わたしはわたしのこと優先で〜!」みたいな、なんか、思いやりない・・・?優しくない?って、ちょっと思ってたんです。

でも、全然そんなんじゃないって、感じてきました。

「ひとの考えてることはわからない、自分の考えてることもわからない」
だから、考えない。
考えないでひとに向き合ってみると

ただ、ありのままの、そのひとが、そこにいる。

生きている。
呼吸している。
水を飲んだ。
のどが動いた。
笑った。
むせた。
眉根を寄せた。

ただ、ただ、生きている、そのひとがいる。
ただ、ただ、ここにいるこのひとを、無条件に信じられる・・・尊敬できる・・・認められる・・・
うーん、言葉にするとなんか違う気もしちゃいますが、なんだろ、全面的に無条件に受け入れてしまえる、それこそ無意識的に。



無意識ちゃんて、特別なものではないそうです。
たとえば呼吸をしている、歩く、手を動かす、なんでも、なんとなくしている生命活動は、無意識ちゃんがやってくれていること。
誰にでも、必ず、無意識ちゃんがいる。
いつも、気づかないところで大活躍していてくれている。
ただ、意識ちゃんのほうが「あ、これ意識ちゃんね」って、”意識”しやすいだけみたいで。

だからつい、人に対してもそのひとの”意識ちゃん”を見ようとしてしまうけど、無意識ちゃんに目を向けると、そこにはただ、ただ、信じられる、尊敬できる、認められる、ひとつのいのちがある。

そしてそのいのちが、なにかを思い、その思いを言葉や形にすることの素晴らしさを、ただ、待てるようになる。

よけいな手出しは無用。
アドバイスなどもってのほか。
空気なんか読んで先回りしてはいけない。

ただ、こちらも、ひとつのいのちとして、あればいい。

ただあれば、いのち同士は惹かれあい、喜びあい、思いやりあい、愛しあえるのかもしれない。


そんな感動はわりと単純にそこここに転がっているのに、意識ちゃんの心配性にとらわれていると気づけないのかもしれない。



親になると人は変わる、とよく言われるのは、もしかしたらこの、「無意識的ないのち」のすばらしさを間近で体験する機会を得られるからなのかもしれないなぁ、なんても、ふと思いました。

身構えず、ただ無意識で生きていよう、
それだけで世界は、いのちのきらめき溢れる美しさに満ちるのかもしれない。



コブタTV(Youtubeです。よろしければごらんください、チャンネル登録もぜひおひとつ。)

未来も捨てちまえぃ

日記
08 /23 2016
日々のものごとに直面して気づく、自分のことがたくさんあります。
今日は、わたしがいかに未来、先々のことをあらゆることの選択基準にしていたかを思い知りました。


今に生きる、という決意をしたと思っていたのに、わたしの意識ちゃんはそう簡単に方向転換する気はなかったようです。

「今に、生きますよ?その後起こるであろうあらゆる問題を回避できるように保険をかけながらね?」という意見のようです、意識ちゃん。
う〜ん、もう、へりくつばっかり〜!心配性なんだから、意識ちゃんたら!それ、今に生きてないし!


でも、意識ちゃんには悪いんですが、捨てようと思います、未来。


わたしは「責任」を気にしてるみたいです。
「こう言ってしまったら、起こりうることの責任はわたしにあるな」とか。発想がいやらしい。
とれませんよね、責任、けっこう、自分のことさえも。
ましてやひとの人生の責任なんて、だれもそもそもわたしにそんなこと望んでませんよね。


・・・まだ今のわたしは言葉で説明できないのですが、
なんか、もう無責任でいいな〜って思ってます。

その時心から思ったことを言えばいい。

そしたらなにが起こっても、その時のわたしは本当にそう思ったんだよ、と、誰の目でも見て、はっきり言えると思うのです。

だから、責任とれるかどうかを考えながらうわのそらで話すのをやめよう、
ただ、ひたすらに、その時だけは無心に聞いて、無心に話そう。

それが今を、その人とのその一瞬を大切にしたコミュニケーションになるんじゃないかなぁ、って思います。

「あなたあの時こう言ったじゃない!」って言われたら、
「あの時本当にそう思ったよ、今はこう思っているよ」って、また、今を大切にすればいい。

とれるかどうかわからない責任なんか感じて、あれこれ考えながらのコミュニケーションを。もう捨てよう、と思いました。


そしてそれは、よくわからない未来を想定してあれこれ考えながら、生きるのを、もう捨てよう、につながりました。

同じな気がするから。
ひととのコミュニケーションも、
自分とのコミュニケーションも。

ひととは、ただ、ひたすらに、その時だけは無心に聞いて、無心に話し、無心に関わろう。
自分とは、今、この時、本当にそうしたいと思うことを、ただひたすら無心にやればいい。

だからもう、未来なんか、捨てちまえぃ!と思ったしだいであります、本日のわたくし。


コブタTV(Youtubeです。よろしければごらんください、チャンネル登録もぜひおひとつ。)

カベをこえるんじゃなくてこわす

日記
08 /20 2016
昨日は自分にとってすごいことがありました。

「自分にとってこれをするのはないな〜」と思うような、結果がこわい、でもホントは、うまくいくならやりたい、だからもうちょっとこう実力がついてから・・・とか、これができるようになったら・・・ちょうせん・・・するかも・・・
ってくらい、ビビってしまうこと、ありませんか。
わたしはたくさんあります!えへん!

昨日起きた時、今のわたしにとって、一番ありえないことってなんだろう?と思ったら、ひとつ思い浮かんだのです。

いや〜、ないわ〜、それをするにはせめてこれくらいの自信とか数字がほしいよ〜、って思ったこと。

まぁコブタTVに、あるかたに「出てください」ってお願いすること、だったんですが、
「そっか、ここで自信とか数字とか言ってたら、多分このままなんだな、もう結果とかどうでもいいから、やっちゃおっと!」
と、急に勇気を出すことにして、メールしました。

飾らず、卑屈にならず、素直にお願いしてみよう。

そう思うこと自体、わたしにはとても新鮮でした。
(はずかしながら、頼ったりお願いするのがへたくそでして、ただいま練習中です!)


えーいっ!


ふ〜、送った!送っちゃったよ!

こんなにドキドキしたのは何年ぶりでしょう。
なんだか笑いがこみあげてきました。
はははは、やったー!もうどうなってもいいぞー!

本当に、心からそう思いました。

すがすがしい気持ちで、友人とのランチに向かったのですが、そこでメールの返信をいただいたのですが

いいよ!って書いてありました。

「え???!ホント?!うそ!うわ〜〜〜〜〜〜〜!
す、ごーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーく嬉しい!!!!!!」

↑こちら、声に出して言った感想です。わたし、大興奮!

すごい!すごい!
自分にとっての奇跡のようなできごとでした。
まだ撮影のめどもたってないので、本当に実現するかはわかりませんが、無意識ちゃんと楽しく遊んでいたらすぐ実現しそうな気がします。



このとき思ったことがあります。
カベって、色んなカベがあるけど、自分の中のカベに、越える準備はいらないのかもしれない。

小さなブロックをこつこつ積み上げて、よいしょ、って柵みたいに越えられる、って思ってから行こう、なんてしてると、ブロック積んでる間にカベが老朽化したり、カベ自体が越えたいものでなくなっていたりすることもある気がします。

だから時には、うりゃ!とワンパンで破壊しちゃえ!っていっちゃうのもいいのではないでしょうか。

もしかしたらカベは壊れず、拳が壊れるかもしれない。
でも、それでも、やってよかった、と案外思えるものなのかもしれません。

そんなカベを感じた時、ちょっと無意識ちゃんにおうかがいをたて、「いっちゃおうぜ!」と声が聞こえたら、
いってみませんか、カベの向こう。







わからないって、なんかすごい!

日記
08 /19 2016
昨日はうれしいメッセージをいただきました。

もうしばらくお会いしていないかたからで、いつもブログを見てくれていること、ちょうど同じように思うところあり、共感してくれていること、そして「意識ちゃんと無意識ちゃん」はおもしろいから、マンガを描いてみたらどう?と、とてもすばらしいアイデアまで!

うれしいなぁ、本当にうれしいなぁ。
無意識ちゃんが小躍りしているのを感じます!


意識ちゃんと無意識ちゃんのことはたしかにマンガとかにしてみると、今までの「楽に生きよう本」にはなかったアプローチができたりするかもしれない!
なにより、描くことでわたしのなかに無意識ちゃんを中心とした生き方が根付いてくれるかもしれない!
つられて同じようにお困りの方も、楽になれる可能性があるかもしれない!

貴重なアイデアをありがとうございます・・・!!



こういう「いいな!」と思ったことにヒョイと乗っかってやってみる、って、今までのわたしには少なかった気がします。
「え〜でもなぁ、ああしてこうして・・・たいへんかもな〜」とたいへんな部分のイメトレだけがヒョイと出てきて、ゲンナリしてしまって「無理〜」ってなってたかも。

昨日は、そうは思いませんでした!

・・・うそです!
白状しますと実は一瞬、「実際描くとしたら・・・」と意識ちゃんが考え始めたのですが、「いやいや!わかんないじゃん!スラッスラ描けるかもしんないじゃん!」て、無意識ちゃんがちゃんと主張してくれたのです。


「わからない」というのは、無意識ちゃんにとってネガティブなことではありません。
「未知の可能性」「おもしろそう」というステキなものなのだと思います。

同じ「わからない」でも、意識ちゃんにとっては重大な問題です。
「安全を脅かされる可能性」であり、これ以上はない不安、そして恐怖の要素なのです。

この「わからない」にどうもポイントがあるようです。
わからない、を大切にしてみる。
わからない、からこそやってみる。
わからない、なら見てみよう。
わからない、でもまぁいっか。

わからないことがあった時こそ、意識ちゃんと無意識ちゃんの存在を感じる機会な気がします。


「あの人はこれについてどう思っているかしら?わからないわ。」

そう思った時、きっと意識ちゃんなら、「これこれこう思ってるに違いない・・・いや、さらにこうなんでしょ!どうせ!?」などと人の心の内をエスパーするでしょう。

無意識ちゃんなら、「まぁ人が思ってることなんてわかんないからな〜、わたしがどう思ってるかも、わかんないかも!あはは〜!」と・・・そう、はっきり言ってしまいましょう、無意識ちゃん、興味がないんだと思います!


え、それまずくない?って、そう、わたしもそう思っていました。
でもそれこそちょっと考えてみてください。
人の心が読めないことって、問題でしょうか。
だって、読めないですよね、心。
(もし読めてしまう能力がある、というかたはホントすいません、否定する気はないのです)

読めなくても、ひとを、そして自分を思いやり、尊重することはできると思うのです。
むしろ読んでないからこそ、そこにいるありのままのそのかたを、丸ごと尊敬することもできるのではないかと、今は感じ始めています。

だって、わかんないんだから!
そっか、わからないって、すべての源ですもんね!
すごいですよ、わからないものの秘めたるパワーは!!

そう思ったら、なんだかすべての人、もの、こと、は、「なんかすっごいんだな〜・・・!」て、敬意の対象として見えてくるのです。

そしてそれが「興味」なのかもしれないと、なにに興味があるかすらわからないほど疲れていたわたしが、今思い始めているのです。

いや〜も〜ビッグバンみたいな感じ、わたし内ビッグバン。


意識ちゃんは頑張り屋さんで、わたしを守ってくれようといつも一生懸命なので、危険回避に全力です。だからわからない、という不安要素は徹底排除したいのだと思います。ありがとうね、意識ちゃん。

無意識ちゃんはのんきお気楽ノーテンキですから、わからないことはただわからないだけ。それより今したいこと、おもしろいこと、ワクワクうれしいことを感じて動くことでいっぱいです。いいなぁ、無意識ちゃん。

どっちじゃなきゃいけない、とかじゃなくて、わたしはまず、無意識ちゃんのノーテンキパワーを楽しみたい。
でもどうにもそれはやめといて!ってことがあったら、意識ちゃんの意見も取り入れたいな、と今は思っています。


今日も元気によろしく、無意識ちゃん!
見守っててね、意識ちゃん!





意識ちゃんが必死に夢を見せてきたよ

日記
08 /18 2016
今朝すごい夢を見ました。



もう疎遠になってしまった大好きなお友達が、同じグループだった友達を連れて、近くにきたので飲もうと誘ってくれるのです。

わたしは嬉しくて二つ返事でしたが、ひとつ用事があったのでその後合流すると約束しました。

用事とは、近所の公民館のようなところでの子供会?的なものの手伝いで、お誕生日会の準備でした。
デコレーション係のようなかたを手伝っていたのですが、楽しくなってきたわたしは頼まれもしない飾りをモリモリ作って飾り付けました。
そしてデコレーション係のかたに「余計なことをするな」的なことを言われて少ししょんぼりしました。

気を取り直し、友達に合流したい旨を連絡すると、「もうずいぶん待ったからお開きにするね!」と言われて、また少ししょんぼりしました。

でもふととなりを見ると、ほかの友達が、わたしがやりたがっていた大きなボードゲームの箱を持って座っていました。

なぜかそのゲームをやるには彼女の絡まってしまった縦ロールの髪(別に縦ロールの友達じゃないんですけどね)を綺麗にほどかなければいけないので、指先が器用なわたしはてきぱきともつれを解いていきました。なぜかその行為がとても心地よく、楽しく感じました。

「ありがと〜、やっぱこういうのうまいね〜!」と友達はほめてくれました。

「こちらこそありがとうだよ〜、わたしと遊ぶためにこんな重い箱を持ってきてくれて、ありがとうね!」とわたしは心からお礼を言いました。
その時、嬉しさとあたたかさで、さっきまでのちょっとしょんぼりなんて吹き飛んでいました。



っていう夢。


これ・・・意識ちゃんと無意識ちゃんの夢だなぁ・・・!と、起きてびっくりしていました。
今まで精一杯頑張ってきた意識ちゃん。
急に無意識ちゃんがスポットライトを浴びて、びっくりしているんじゃないかしら。

たしかにわたし、「意識ちゃん」とか「無意識ちゃん」てキャラクターみたいに扱うのがなんだかとてもしっくりきて、自分の中にふたりのキャラクターがいるみたいに思っていたのです。

だから「無意識ちゃんステキ!」って思っちゃったら、今まで頑張ってボロボロになりながらも必死でわたしを守ろうとしてきた意識ちゃんの立場はどうなるんだろう・・・て、ちょっと思ってたんですよね〜。

だから夢という形で、「無意識ばっかりだとこんなめにあっちゃうよ!意識もいるよ!むしろ意識を大切にしないと大変だよ!」ってアピールしたかったんじゃないかしら。


この夢のわたしはまさに今のわたしの心の感じ。
無意識に生きることを知ってしまったから、そうしようと行動している。
けどまだやっぱり少し不安で、それが夢の中の人間関係にあらわれている気がする。

この夢は一見「好きにしたら怒られたり仲間はずれにされる」とか「世界は広いから、捨てる神あれば拾う神あり的に仲良くしてくれる人もいるよ」的なことかな?と思ったのですが、そうではなくて、


「それでも、わたしのままでいたほうが、なんかいいな」
っていう夢だったのかもしれません。

こうして言葉にしてしまうと、どうにも意識的になってしまいますが、うん、そう、なんていうか、


意識ちゃん、これからは無意識ちゃんのしたいようにしてみようと思ってるんだけどね、意識ちゃんはそれを見守ってほしいんだ。
むかしお母さんにそうしてほしかったみたいに。

見て、応援して、信じていてほしいんだ。

大丈夫だよ、思ったとおりにやってごらん、あなたならできるよ、なんでもできるよ、信じているよ、応援しているよ、

って、いつも見守っていてほしいんだ。


意識ちゃんから見ると無意識ちゃんはふらっふらした赤ちゃんみたいで、心配で不安でもう手をださずにおれないような存在だと思うんだけれど、無意識ちゃんを信じて、見守っていてね。


・・・なんだかおもしろいなぁ、人間って。


コブタTV(Youtubeです。よろしければごらんください、チャンネル登録などもぜひぜひ〜!)


意識は無意識を否定してしまうらしい

日記
08 /17 2016
昨日の記事のつづきです

よく、「もうひとりのわたし」的な表現があると思うのですが、今わたしの感覚としては
「意識ちゃん」と「無意識ちゃん」というふたりがいるのかな、という感じです。


意識ちゃんは、しっかりもの(自分内比較です)で、ちゃんとしなきゃ!正しいほうへいかなきゃ!と、いつも張り切っています。

無意識ちゃんは、あっけらかんとしていて、これおもしろそう!こっちに行きたい気がする!と、わくわくフワフワしています。

今までのわたしは、意識ちゃん9・5に対して無意識ちゃん0・5な感じで、たま〜に直感的に、「なんかそれは臭う。やめよう。」と回避することがあったり、「なんのためになるかわからないけどなんとなく今はやってみよう」と動くことがありました。
今になって、ああ、あれは意識ちゃんのすきをついて無意識ちゃんが誘導してくれたんだなぁ、と思い出せることがいろいろあります。
そしてそれらの出来事は、結果的にとてもわたしにとっていいものでした。

こうなると、じゃあもう意識を完全に手放して、無意識に生きればいいんじゃない?!と、影響されやすいわたしは思ってしまうところですが。
意識というのは、無意識を否定してしまうそうです。

「おいおい、それじゃその先はどうなっちゃうの?ちゃんと考えてる?なんの役に立つの?それがあなたのために正しいって保証はあるの??」
これが意識ちゃんから見た、無意識ちゃんへの気持ち。

うん、すっごいそういうのある。
自分のなかだけでもそういうのいっぱいあるし、人に話していてもある。
「それ、なんのためにやってるの?なんのやくにたつの?え、それ正解なの??無駄じゃないの??」みたいな。
わたしも人にそう言ってしまったことが、いーーーーっぱいある。
だって心配ですもんね。
「この子、フワフワしちゃって、大丈夫?生きていける?辛い目にあっちゃわない?」
そういう、優しい気持ちが、否定であることに気付けなかった。

「あなたのためを思って」という、うそ。

「あなたがこれこれこうなったら、それを見るわたしがつらい」と言えない、うそ。

(このへんのことについては、皆様いろんな気持ちがあると思うので、わたしの場合、に限定して読んでいただければ幸いです。)

ちなみにわたしはゲームのお仕事をしているかたに、それをしらず
「ゲームってなんのためにやるのか意味がわからない、ゲームばかりやっていると頭が悪くなるんじゃないか」
的なことをふと話題として話してしまったことがあります。

(恥ずかしながらわたくし、ファミコンが出始めた小学生の頃にはもうすっかり「なんとか自分の居場所を作って生き延びねば!」とサバイバル意識でいっぱいになってしまっていまして、遊び、というキラキラしたものがジリジリ自分のなかから失われておりました。)

言ってしまったのは5年くらい前のことですが、今こうして書いてみて、今は全然そんなこと思ってないので、なんかちょっとビックリです。
そのかたとは今もたいへん仲良くしているのですが、ホントごめんね!あんなひどいこと言ったのに仲良くしてくれててありがとう・・・!!!
いや〜あれは意識ちゃんがさ・・・いえ、言い訳はしません・・・!




「意識ちゃん」と「無意識ちゃん」の、まるで心配性なお母さんと自由な子供のような関係に気づくと、いろんなものが見えてきました。

無意識的に・・・直感のようなものに従ったときはだいたい自分にとっていい結果になったなぁ

意識の問いかけ・・・意味があるのか、価値があるのかなどを考え出すと、キラキラしていたものがとてもつまらないものに見えたねぇ

色々捨てたい、空間が欲しい、ポカーンとしたい、って思って、片付けがたまらなくしたいのは、無意識の居場所がほしいんだなぁ

鳩になりたいとかスズメになってお米や豆のことだけ思って生きたいなど思っていたのは、もうホント、無意識に生きたかったんだねぇ

夢中になりたい、そういうひとに憧れる気持ちも、無意識で動きたい、生きたい、っていうアピールだったんだねぇ

わたしがほしかった天国も、それは脱力した、無意識の世界のことだねぇ

そういや禅とか仏教的な考えの本なんか読んでいると「あれこれ考えず今にひたすら生きる」ってあるけど、あれもまさしく無意識の世界なんじゃないかなぁ

好きか嫌いかで決めるのはカンタンだと思っていたけど、それが絶対だとこだわりすぎると、しんどいねぇ、好きか嫌いかも、自分が思ってることも、わかんなくてもいいんじゃないかなぁ・・・うん、わかんないな!って投げると、あんがい無意識ちゃんが手を引いてくれるんだよねぇ



ああ、いつだって無意識ちゃんは「ここにいますからね」ってアピールしてくれていた。
ただわたしは意識ちゃんが一生懸命で、頑張っていたから、それこそ導きだと思っていた。
ただ力を抜くだけで無意識ちゃんの居場所はできたけどそれができなかった。

ただわかんないね、って認めるだけでよかったのにできなかった。
こわくて、信用してなかった、自分を。

どうなっちゃうのかわかんないのがこわくて、意識が作り出した「目に見える現実」にすがっていた。

てばなせば
もっととんでもなく広い世界があるような気がしてきている。

あ、これ以上考えると、それはまた意識ちゃんが作る世界になってしまいそう。



ひとの気持ちはわからない、自分の気持ちもわからない
でも、それでも、大丈夫。

まずはそう繰り返して脱力してみます。
そっと無意識ちゃんが手を握ってくれる予感がしています。





せっかくいいことを思いつき始めていたと思ったのに

日記
08 /16 2016
前回まで書いていた、「YouTubeにさみしいわたしの居場所を作りたい」シリーズ。
書いていて、「あっ、そうか、こういうことかな?!」といろいろ思いついたり、頭がまとまっていったり、生きるのが楽になるような気がし始めていたのですが・・・


あれだけいろいろ書いた翌日の朝、ちょっとSNS的なものを見て、まぁツイッターなんですけど、書くのすごい恥ずかしいんですが、「いいね的なものがひとつもついてない・・・やっぱりわたしのことなんて誰も興味ないんだなぁ・・・」などという、もうホントすごいめんどくさい、ヤメテ!って一言が朝一の頭におりてきたのです。


もうね、すっごい、めちゃくちゃショックでした。


ええええ〜〜〜〜?わたし、なーーーーーーんにも変わってないんじゃん!!!!!
なんで?なんで????むしろ悪化してない???
って、本当に本当に、絶望にも似た、泣きたい気持ちになったんです。


日頃さんざん、SNSのそういうのを気にするのだけはイヤ、と思っていたのに。
これ、少し前に書いた数字を気にしてしまううんぬんのトコ、なんにも気持ちを切り替えられていないんじゃない・・・!って、なんかすごーーーーーーーーいむなしいやらかなしいやら腹立たしいやら。

またわたしはあれこれ頭をこねくりまわして、わかったような気になって、なんにもわかっていなかったのか・・・と、落ち込みました。



そんなタイミングで、近しい人に話を聞いてもらえる機会がありました。

おしゃべり、というより、カウンセリング的にこのショックでとっ散らかった頭の中を整理してもらうような時間でした。

最近、頭をまとめようと乏しい脳をフル回転させたうえ、それがなんの役にもたたなかったと感じていたわたしはとても疲れていて、ぽろぽろぽろぽろと考えなしに思いを漏らしていきました。

そのなかでわたしはだんだん自分の正体に触れていくことになったのです。


ざっくりですが文にすると、

わたしはずいぶん小さい頃から「さみしい」という感覚を抱いていた。

家に居場所がないような気がしていて、秘密基地をつくったり、わたしだけの家族のような存在を求めてお人形や小動物に執着していた。

つらいことがあるたび「ここではない居場所を探さねば」と思っていた。

描く、作る、などさまざまなことをしてきたつもりだったけれど、どれひとつ満足できなかった。

夢中にはなれなかった、創作を作品を愛せなかった、なぜならそれらは「わたし不在」の空っぽなものだったから。

必死になればなるほどわたしは力が入って、疲れていった。つついたら割れてしまう風船みたいに。
みちみちに詰まっているのは、無の空間。

わたしはいろんなアイデアで飾られた小部屋が迷路のように入り組んで積み上げられた大きな建物だった。
でもその全てには、無の空間が詰まっている。
いや、なんて言えばいいんだろう、
「意識」がその大きな建物にひとりで住んでいて、

座敷童になりたかったわたしは「無意識」で、

「無意識」のわたしはずっとずっと近くでようすをうかがいながら、待っていた。
お家に入れるのを。わたしの中に入れるのを。



わたしがほしかったのは居場所じゃなかった。
居場所はあるじをずっと待っていて、
わたしは居場所をずっと見ていて、入れる準備が整うのを待っているような、
そんなイメージがわたしの中にいっぱいにひろがった。



すみません、またつづきます

コブタTV(よろしければごらんください)






YouTubeにさみしいわたしの居場所を作りたい(8)

YouTubeにさみしいわたしの居場所を作りたい
08 /12 2016
YouTubeにさみしいわたしの居場所を作りたい(1)から読んでいただけるのはこちら

ひとつ前はこちら



昨日の記事で自分の恥ずかしい思いを書き出したことにより、その後ずいぶんすっきりした気持ちで考えられました。
う〜ん、やっぱり創作の問題はわたしにとって根深いんだなぁ〜。

少し前の記事にも「プライドを捨てる、どう見られるかを気にしない」という関係のことを書いていて、ある程度人の目も気にならなくなったし、ずいぶん楽になったよなぁ〜と思っていたのですが、それは「創作以外」の部分だったみたいです。見た目とか、人間関係とか、日々の暮らしの中の考え方とか。

創作・・・描くこと、作ること、は、わたしにとって確かに人生の中の他の要素とはまったく別の・・・いや、人生の中で特別に大切なことみたいです。

でもそれならなおさら執着はしたくないなぁ。
きっと今まで無我夢中で徹底して集中しなかったから、わたしの中の創作に対する情熱のようなものがくすぶっているだけなんじゃないかしら?

いわゆる、かなわなかった恋は忘れられず、ずっと身を焦がすことになるような。

だったら、今、思いっきりやるだけやってみて、思いを昇華させてあげよう。

ずっと、一生やろう、ここしかわたしにはないかもしれない!みたいなことになると、やたら人生という言葉は心に重くのしかかってきて、この形じゃだめかも、とか、よりよくしないと!って身構えがち。

もっと軽くていいのかもしれない。

だって重たく見える人生、でさえ、結局今の積み重ねで、長く感じるの、気のせいなんだもんね。今しかないもんね。

気張りすぎなんじゃないかしら。創作に対して。

なにかを描くって、ものを作るって、楽しいね!
・・・それだけじゃだめなのかしら、わたしは。

そもそも「それだけ」って、本当に今まで一度でも、「なにかを描くって、ものを作るって、楽しいね!」って、全身全霊で楽しんだことがあるのかしら・・・?


あ、そうかぁ、だからコソコソしていたのかもしれない。
「これかなぁ〜?・・・あ〜違うかも・・・わかんないな〜・・・」っていつもうつろだったのは、本気で楽しもうとしたことがないからかもしれない。
「楽しい」という気持ちは、どこからか与えられるものであって、意識的に「楽しもう!」なんて思って動くものじゃないでしょ?って思ってた。
だから楽しいのか楽しくないのかよくわかんなかったのかもなぁ。
違うんだ、楽しい、楽しむ、って、もっと自発的なものなんだ。


「楽しむ」って、愛と似ているのかもしれない。
もし持っていないと思っていても、あるもの。
与えられるもの、人にも自分にも。
楽しいかどうかじゃなくて、自分から、楽しめばいいだけなんだ。
最初はヘタクソかもしれないけど、楽しむことだって、やればできる、慣れればカンタンに自然にできることなんだ。

そうかぁ、そうかぁ、わ〜すごい納得した!




YouTubeにさみしいわたしの居場所を作りたい、と思った。
ほかにもきっと、同じようなさみしい思いを抱えている人がいたら、その人にも「居場所があるよ」って言ってあげたいと思った。
でもそれは永久的に絶対な場所でなくてもいいのかもしれない。

ちょっと寄り道してもらえるような。
人が皆、それぞれしか歩めない道をひとりひとり歩いているなかで、「わたしの世界」という休憩所に寄って、一息ついてもらえるような。
それでいいのかもしれない。

だから「天国つくらなきゃ!」じゃなくて、わたしが天国にいればいいんじゃないかしら。
夢中で遊んで、本気で楽しんで、キャッキャと笑っていれば、そこは天国で、誰かにも一緒に楽しんで、笑ってもらえるんじゃないかしら。

そうやって今を本気で楽しんでいけば、あれこれ恥ずかしく思ったり気にしていたことなんて、いつのまにかどうでもよくなっていくような気がします。
それどころじゃないもんね、きっと。

慣れもあるし、クセもあるからね、少し疲れた隙に、またついついクヨクヨし始めた時は、まずは少し体を動かして、プライドや自意識におどらされるほど暇なら、今できるおもしろいことを考えようよ!

「まわりのことより、まずは真ん中の”それ”を震えるほどに楽しんでごらん。ほら手を動かして、つられて心も動かそう!」



つづく

コブタTV(よろしければごらんください)

武内香菜

25歳くらいの頃漫画家デビューして、3年間ほどホラー漫画を商業誌にて連載後、うつになり1年間ほど療養。
友人の映像制作会社立ち上げを手伝うなかで会社設立の流れを学び、2003年に(有)ユーデンフレームワークス を設立。在籍中に北米で漫画単行本を三巻出版。2011年講談社アフタヌーン誌にて四季賞を受賞。他、映像作品のキャラクター、衣装デザイン、企画用イメージイラスト作成などの機会をいただいていました。代表取締役として10年間勤務した同社を2013年退職。
今までの人生、いろんなことをやったのに、何がしたいかわからない自分に3年間みっちり向き合った後、2016年7月からYouTubeにて「コブタTV」というおやすみ前の3分間癒し番組を始めました。

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。